ISAM’S BLOG

下地イサム

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中休みすぎ?

最近80年代オムニバスCDにハマッています。

いい~んです。

 

「初恋」で始まるそのCDは、母校久松小学校のあのときの廊下に、

 

「ルビーの指輪」は、修学旅行で行ったあのときの那覇の街角に、

 

「異邦人」は、ギリシャ辺りの商店街を想像したあのときの近所の石垣に、

 

「長い夜」は、兄貴と二人でひたすら収穫し続けたあのときのさとうきび畑に、

 

 

というふうに、

 

それぞれの曲が、それぞれの思い出の場所に一瞬にして僕を連れて行ってくれるのです。
優しい風と少しだけ憂愁の色の中にすーっと溶け込んでいく自分を感じ始めたとき、

 

 

「そろそろ出番です。準備してください」

 

 

生々しいスタッフの声で現実の世界に連れ戻されて、

 

ふんわりとした気分でステージに向かいます。

 

なかなか噛み応えのある日々を過ごしています。

 

もう少し中休み、もう少し写真をどうぞ!

 

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中休み!

「下地さーん!ブログ見てるよぉ」

近所を歩いていると、通りすがりの年配の男性に言われました。
これはすごい確率に違いありません。

一握り中のひとにぎりですよ。

 

(嬉しいなぁ)

 

「あ、  ありがとうございます」

 

もちろん僕は応えます。

 

「すごい展開だねぇ。携帯じゃとても読めないねぇ(笑)」

 

「も、申し訳ありません」

 

ホント...。

 

(それもそうだったなぁ)

 

昨日のライブ会場でも同じこと言われました。

 

すみませーん!

 

ということで、少し中休みです。

今まで写真を載せていなかったので、いろいろとご覧ください。

あ、それと昨日のライブとても楽しかったです。

初のレコ発ライブと言ってもいいくらい、新しいアルバムから9曲もやりました。

お越しいただいた皆さん、本当にありがとうございました。

 

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とりとめもない考え事

僕という人間はですね、まぁとにかく面倒くさいんです。
ひとたび何かを考えてしまうと、風が吹いたときにパラパラと気まぐれにめくれていく本のページのように、突然考えるモーターが働き出して何も手につかなくなったかと思えば、前触れもなくピタッと思考が停止したり、しかもそれはどこかに辿り着きたいわけでも、何かの答えを導き出したいわけでもなく、ただただ風にまかせて行きつ戻りつしながらめくれていくだけのページそのものなんです。で、結局は面倒くさいのが更にややこしく難しくなって、どうにもこうにも厄介な、決着のつかない世界へと己を押しやっていくんです。ええ、いつものことと言えばいつものことです。悶々と考え込む癖ですね(笑)。

えっ?

どんなことを考えているのかって?

よぉし。

ならば、

考えすぎ、理屈っぽい、面倒臭い、いろんな風評をもろともせずに書いてみることにします。

ある日のことです。何となしに僕は線と線の幅が1センチぐらいの平行な線を想像してみました。
二本の線は宇宙の果てまで交わらずにずっと伸びていきます。
1センチという至近距離にありながら、互いの線は未来永劫決して交わることがありません。僕は何とも言えず寂しい気持ちになります。

近くに住んでいるのに、互いに口も利かないで一生を終えるような人との間柄は、このような至近距離の平行線を連想させます。近いところにいて相手の存在は知っていても、交わりのない関係だけに、たとえその人の死を知らされたとしても、気の毒に思うことはあっても、永遠の辛い別れという感情は湧いてきません。その感情が生まれてくるのは、身内、肉親、愛する人といった、血が交わる、あるいは心や精神が交わる人との関係ではないでしょうか。出会いがあれば別れがあるという関係、それは交わる線と線との関係を強くイメージさせるものです。
ということで僕は、次に交わる線というものを想像するというわけなんです。
たとえば、何億光年という距離にある線と線同士が、平行より0.0001度ぐらい内側に向かって伸びていくとします。それはいつになるかはわかりませんが、遠い将来に必ず交わる日が約束されていますね。いつか交わるというのは、もう誰が何と言おうと決定してしまっていることです。そのような見方をすると、これもまた先が見えてしまっているようで、切ない気持ちになってしまいます。人や生き物が生まれてきたその時点で、死を決定づけられているように。
子どもの頃というのは、死なんてほとんど意識しませんから、いかにも自分の人生がいつまでも終わらない平行線のように感じています。しかし着実に死という終点に向かって閉じていこうとする線だということを、本能で悟るにしても、理性で認識するにしても、ひとたびそれを意識してしまうと、その瞬間から僕たちは、まるで映画の結末を知りながら映画館に入っていくような心境で、今までとはどことなく違う、空虚さの中で世界を感じるようになってしまうのです。それはある年齢ぐらいまで否応なしに強さを増していき、たとえばある晩酒に酔って眠りにつこうとすると、心地よい無意識の領域にまで、突如としてあの空虚の闇が襲いかかってくるのです。どうしようもなく恐怖に慄きながら、叫びたい衝動と共に突然飛び起きたりしたものです。

僕たち人間は、この二つのタイプの線と線の関係性、つまり、平行線か交わる線かの、どちらかしか選択できない、いや、自らの力では選択など到底できない、まさに宇宙の法則によって与えられた、どうにもできない世界でしか生きていけないように運命づけられているのかもしれません。

さて、問題はその先です。
交わった後、その線と線の距離が果てしなく広がっていくという衝撃的事実です。これはどういう意味なのでしょうか。何とかならないのでしょうか。その法則自体を知ってしまった罪なのでしょうか、例外を許さない宇宙の法則が、情け容赦なく僕たち人間を苦しめ、寂寞の世界に閉じ込めて虚しい気持ちにどっぷりと浸かるように仕向けているのでしょうか。「知らぬが仏」とは誰が云った言葉でしょう。その言葉どおり、そもそも私たちは何も知らない存在のままで生きていた方が、本当は幸せなのかもしれないと思ってしまいます。それとも、別れが辛すぎるから、どこまでも際限なく忘れさせるための、目には見えない存在によるお情けなのでしょうか。

はぁ~、頭の中が混乱してきました。

そのときです。

僕の前に突然、不意にあの線のシルエットが現れました。それは、ひとたび交わった線が美しい曲線美でUターンして再び交わるあの線、あのマークです。
そう、8の字、つまり無限大のマークです。
美しく丸みを帯びたあの曲線、それは女性そのもの。あ、いや、無限大のマークそのものじゃないですか。

「セーラー服と機関銃」で、薬師丸ひろ子さんが歌っていました。

『さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うまでの遠い約束』

まさに∞(無限大)の本質を歌っている気がします。
永遠に出会いと別れを繰り返していくこの美しい曲線を宇宙が許しているのかどうか、僕にはわかりません。円周率が永遠に割り切れないところを見ても、許していないような気がしますが、それでもその美しいシルエットにこそ僕は救われます。彷徨い続ける精神にとって安住の地を見い出したと言ってもいいくらいです。

曲線っていいですね。
いつまでもなぞっていたいですね。

丸みのある人間、憧れます。

いやはや。

どうしようもなくくだらないことにつき合わせってしまいました。しかし、なぜかこれだけ書いても頭の中はスッキリしないどころか、ますます悶々としてきました。
よおし。
ならば、
また次の機会に別の思考の断片をご紹介することにします。