無口な人間に

下地イサム

無口な人間に

今月も明日までですね。ヒェ〜!はえー!これはもう恐怖でしかない。たった今正月を迎えたばかりじゃなかったのかい?
やれやれ、この調子だとあっという間に「良いお年を!」ですね。こわいさー。

ところで、無口な人間に憧れることってないですか?僕は憧れます。常に憧れています。というのは、とりも直さずしゃべり出したら止まらない自分がいるからです。振り子理論なのかわかりませんけど、ひとりの時間が長ければ長いほど、その反動で、誰かと会った時は喋りたくてたまらないという自分がいます。ひとりになりたいと渇望するのと同じぐらいの振り幅で、しゃべりたいという衝動に駆られるのです。

昔から「口は災いのもと」と云われるように、調子に乗ってしゃべっていたら知らないうちに場の空気を壊したり、周りの人を傷つけたりということになりかねない、少なくともしゃべる人にはその危険性があります。人を笑わせて盛り上げて惹きつける可能性がある一方で、場の雰囲気を険悪なものにしてしまう危険性も持っています。何より口数の少ない人のあの、何というか品があって美徳な感じ。ああ、なりたい、そんな人に。

たとえば大人数で飲み会をしている時、よく観察していると、しゃべる人としゃべらない人に分かれていることに気づきます。しゃべる人は終始しゃべっていて、しゃべらない人はひたすらしゃべる人の話を聞いています。聞くことこそが幸せとでもいうように。なんの無理もなく笑みすら浮かべています。タバコを吸わない人が、タバコのことを意識さえしないのと同じように、しゃべらない人がしゃべってみようなどとは考えもしないのかもしれない、と思ってしまうぐらい無口な人がいるものです。そうなるともうしゃべる人はますます図に乗ってどんどんしゃべっていきます。そしてしゃべりすぎている自分にハッと気付くのです。気付くだけまだその人はマシなのかもしれませんが。僕はあっち側の人になりたいのです。聞く側の。
一つだけ救われるのは、僕はしゃべりすぎたなと翌日反省する気持ちだけは持ち合わせていることぐらいです。

しゃべらないように意識を集中して無口な人間を装うことはできます。しかしそれは理性でブレーキをかけただけの偽りの自分でしかないのです。さあどうしよう。ライブのとき一言もしゃべらない自分でいられるだろうか。
そこはちがうか(笑)。
ああ!今日もしゃべりすぎました。
こっち側の人間はどうしてもあっち側の人間にはなれませんね。こればっかりは…
受け入れよう。