ジョギング

下地イサム

ジョギング

  その少年は、ある日急に思い立ったように走ってみることにした。
小さな島を一周する狭いアスファルトの道が、ずっと延びていって水平線に重なるところで見えなくなっているのを見ると、その先がどうなっているのか、何があるのか、自分の足で行って確かめてみたいという気持ちになった。

父の仕事の都合でこの島に移り住んでまだ一週間しか経っていない。島の中学校のみんなとはまだ馴染んでいるとまではいかないが、これからもっと仲良くなれそうな気がしている。

 

   少年は、学校から帰るとすぐにジョギングの格好に着替えて、人も車もほとんど通らないその道に向かった。遠くに水平線が見え、リーフにぶつかる波の音が聞こえる。浜辺のアダンの木は、色鮮やかな緑色をしていて、今日みたいに風のない日は、まるで絵葉書のように少しも動きがない。日は傾きはじめているが、南の島の強烈な日差しが刺すように照りつけている。緩やかなカーブが続くその道を、彼はゆっくりと走り出した。それに合わせるように周りの景色もゆっくりと動き出して彼とすれ違っていく。水平線だけがじっとしている。道を横断しようとしていた大きなヤドカリが、彼の気配を感じたのか、サッと宿の中に身を隠した。風がないせいだろう、その音が彼の耳にはっきりと聞こえた。さっきにわか雨が降ったせいで、アスファルトから蒸気が上がるときのあの独特の匂いが漂っている。彼はその匂いだけは都会と変らないことを知って、なぜか少し安心した。でもそのせいで日差しが強烈に反射して、彼の肌に容赦なく熱を届けてくる。真夏の蒸し暑さが彼を襲った。

  2キロぐらい走ったところで、彼の身体からは大量の汗が噴き出してきた。海風に当たりながらのジョギングはとても気持ちいいに違いないと、走りだす前はそう思っていたのに、いざこうして走ってみると、彼はまったくそれを感じなかった。酸素を欲しがって呼吸が速くなっていく身体は、やがて規則正しいテンポに落ち着いたかと思うと、その単調なリズムを感じる以外にはもう何もしたくないというように、ただ坦々と足を前に出しているだけだ。それでも足取りだけは少年らしいしっかりとしたものではあった。

 しばらく走っていくと、道の脇にある大きなデイゴの木の下に、四、五人のおばあちゃんたちが座っているのが見えた。畑仕事の休憩時間だろうか、手ぬぐいを頬っ被りして湯飲み茶碗を口に運んでいる。息を切らしながら彼は、ゆっくりとしたスピードでそこに近づいて行った。するとそのおばあちゃんたちが一斉に彼のほうを向いて何やらひそひそ話を始めた。彼は少し下を向くようにしてそこを通り過ぎようとした。と、そのとき、一人のおばあちゃんが小走りで彼の方に近寄って来て、何か言いながら片手を差し出した。何を言っているのか島の方言のようで彼にはよく理解できなかったが、かろうじて最後の言葉だけが聞き取れた。

 

「これ食べてがんばって走りなさいねぇ」

 

「あっ....」

 

考える余裕を与えないほどの素早さで、彼の手にはいつの間にかソフトボールほどの大きさもあるサーターアンダギーが握られていた。
うまく状況がつかめないまま、片手にそれを持って彼はどんどんその場を離れていく。あっという間の出来事だった。そのおばあちゃんの動きには、とっさの反射神経のような俊敏さがあったのに、まったくそれを感じさせない自然さがあった。さもそのために準備して彼を待っていたかのように、流れるような身のこなしだった。その場から離れて行くにつれて、不思議な気持ちがどんどん増していく。このサーターアンダギーをいったいどうしたらいいものか、走りながら彼はまったく判断がつかなかった。どう考えてもそれは、ジョギングの人に差し入れられるべきものではないように思えた。それを持つ左手に微妙なバランスの悪さを感じながら、彼は、確かにみずみずしい食べ物とはほど遠い感触を手のひらに感じていた。今、自分の身体の中の水分という水分がほとんど汗に持っていかれて、唾液のほうにはまったくその配分が回ってこない感じなのに、飲み物なしでそれを口の中に入れたとしたら...。想像するだけでそれは軽い拷問のようにも思えた。自動販売機で水やお茶を買うお金など持っているはずがないし、というか自動販売機自体ないし、かと言ってひと様からいただいた物を捨てることもできない。やがて彼は、サーターアンダギーを持ちながら、マラソンランナーが最後の陸上競技場に戻っていくようにして、集落内に入っていった。

 すると、通りの向こうにあるガジュマルの木の枝に見え隠れしながら、遠くの方から一人の女の子が歩いて来るのが見えた。目を細めるようにしてよく見ると、同じクラスの女の子だった。彼はその子とまだ会話を交わしたことがない。集落内ですれ違うのも今日が初めてだ。普段から、集落内に人が住んでいるとは思えないほどひっそりとしたこの通りには、当たり前のように歩いている人など誰も見当たらない。このまま行くと二人だけですれ違うことになる。
彼の胸は高鳴った。実は転校して来て以来、一番気になっている女の子なのだ。

 ところが、このとき彼はふと自分の外見を意識して、急に謂れもなく恥ずかしい気持ちになった。ジョギングの格好をした自分が、巨大なサーターアンダギーを一個だけ持って走る姿が、なぜかとても不自然で間抜けな人間のように思えてしまったのだ。思わず彼は立ち止まった。ふと彼女の方を見ると、全然違う方を向いていてどうやら彼にはまだ気づいていない様子だ。
今ならまだ間に合うかもしれないと、突然振り返って後戻りしかけたが、いや、今この瞬間を彼女に見られていたらと思うと居ても立ってもいられなくなって、すぐにまた向き直った。それだけで挙動は十分に怪しい。彼女はゆっくりと近づいてくる。通りの脇にある石垣のすき間に一時的にサーターアンダギーをはめ込んでみようとしたが、それは叶わなかった。そのアンダギーはあまりに大きすぎた。ジャージのズボンのポケットに入れてみた。太ももにフィットしたズボンの股間のあたりが大きく膨らんだ。会話さえ交わしたことのない女の子とすれ違うのに、こんなに股間を膨らませていいはずがない。すぐにポケットから取り出した。彼女との距離はどんどん縮まっていく。たかがサーターアンダギーを一個もらっただけなのに、彼の慌てふためきぶりは異常とも言えるものだった。彼は、いまだ経験したことのない状況ゆえに混乱した。たとえて言うなら、ゴルフ場の芝生の上をボウリングの玉を持って歩いていく人と同じような印象を、自分に感じてしまった。その人はたまたま事情があって、ある人からボウリングの玉を受け取っただけなのかもしれない。なのに、自分がゴルフの格好をしているのと、場所がゴルフ場というだけの理由で、すれ違う人には、奇妙な印象を与えてしまうことになる。なぜにゴルフ場でボウリングの玉なのか解せないといった風に、その人を目にした人は、違和感をもってずっと凝視し続けるのかもしれない。少年は、そこまで冷静に想像力を働かせる余裕などもちろんなかったにしても、あくまで漠然と同じ印象に対する恐れを抱いているのだ。彼女との距離が縮まっていく中で、切迫感と焦燥感が、一切の割り切りも開き直りをも許さなかった。ゆえに彼は、自分で自分の格好を、見た目のその印象を、持っているものとのそのバランスを、今まで自分の中にあった既成概念の枠のどちらにも振り分けることができずに、ただ混乱するしかなかった。

  もっともとりたくなかった行動をとる時というのは、えてしてそういう状況下なのかもしれない。彼は、突然サーターアンダギーを口に入れた。その動きは不意をついたように素早いものだった。まるで自動販売機のボタンを押したらすぐに飲み物が下に落ちてくるみたいに、自動的な動作にも見えた。お月さんでいえば満月から半月に欠けるぐらいまで、一気にそれに噛りついた。手のひらに残ったサーターアンダギーが、もうそれとはバレないぐらいにまで小さくなっている。思っていたとおり、その食感は日にちの経ったドーナツのように、パサパサだった。きな粉を思いっきり口に含んだような食感もあった。わずかに黒糖の香りがしたと思ったその瞬間、口の中の壁という壁にサーターアンダギーが接着剤のようにへばり付いて、吐き出すことも飲み込むこともできなくなった。

(水、水が...ほしい。)

何か言おうとすると、

「パフパフ」という音だけが聞こえた。

  今、救いの道は鼻の穴だけにあった。しかし、炎天下をここまで走って来たせいで、身体の中に十分な酸素を取り入れるためには、鼻の穴だけでは不十分だった。その事実を、こういう状況になって初めて、頭より先に身体が知ってしまうことになった。彼は悶えた。息苦しい。
すると、彼女が急に早足になって彼に近づいて来た。あきらかに彼の様子がおかしいと感じたのだろう、不思議そうな顔をしながら彼の目の前まで走って来た。少年と彼女は初めて、こんなに至近距離で目と目が合った。彼女の目の前には、彼女のことが気になっている少年が立っている。リスのような目をして、リスのように頬張った男の子が、半分に割れたサーターアンダギーを持ちながら、青白い顔で何かを訴えている。

「どうしたの?大丈夫?」

やさしくて愛らしい声に違いなかった。しかし彼の耳にはそれが聞こえなかった。聞こえているのに、聞こえているという実感がなかった。息苦しい以外は何も感じない。空を仰ぎ見るようにして、右手は天に向かって見えない誰かに懇願するように、左手は自らの喉を鷲づかみにするようにしてよろけた。少年の視界は急速に狭まって、ボウリング玉ぐらいの大きさになり、彼女の白いスニーカーだけがその視界にスッポリ入ったと思ったら、地面に片ひざをついたような感覚から、ふわっとした気分になって、ピンポン玉ほどの空が見えたと思った瞬間、パチンと消えて、真っ暗になった。

「だれかぁ~」

遠くで彼女の声がかすかに聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのときはどうなるかと思ったわ」

「オレもね」

  学校の帰り道、ちょうど一ヶ月前に彼が倒れたその現場を通り過ぎながら、二人は、ここを通れば必ずあの場面を思い出すというように、笑いながら同じセリフを口にするのだった。彼女が大声で助けを呼んでくれたおかげで、近所の人たちが何ごとかと表にとび出してきた。目の前に倒れている彼を見た一人のおばあちゃんが、素早い動きで彼の口に人差し指を突っ込んだかと思うと、遺跡でも発掘するような手さばきで粉々に砕けたサーターアンダギーをかき出していった。そのあとすぐに別のおばあちゃんが水の入ったやかんを持って来て、その注ぎ口を彼の口に押し込みながら、パンパンッ!と、その頬に往復ビンタを張った。このような連携した動きもまた、かつて経験済みであるかのように、一切の動揺と滞りを見せない見事なものだった。その手はきっと今までに何千個というサーターアンダギーを握ってきた手に違いない。そんな老婆の手のひらが、こんなことで死んだら許さんよとでもいうように、彼の頬に、年輪の重みを含んだ渇を入れていた。

彼は咳き込みながら、10粒ほどのサーターアンダギーの破片を噴水のように吐き出すと、大きく喉を鳴らして息を吸い込んだ。

 

「あの時はホントに死ぬかと思ったよ」

 彼はあの日以来、だいたいこうして彼女と一緒に帰ることが多くなった。あんなことがなければこんな関係にもなっていなかっただろうと考えると、サーターアンダギーをくれたあのおばあちゃんにも少しは感謝しないといけないのかなぁと、つい思ってしまう。

いや、でもそれはどうかな...。

 

彼は、しばらくの間はジョギングをする気にはなれなかったが、

サーターアンダギーを嫌いになる気にもならなかった。