悟りの境地

下地イサム

悟りの境地

悟りの境地とはたとえばどんな境地なのだろうかと考えてみました。

いえいえ、僕自身が悟りを拓こうなんてそんな大それたことではまったくありませんけどね。

広辞苑を引くとですね、「世の中の真理を会得する」というような説明書きがありました。

へぇー、そうなんだ。

って、だからそれがどんな境地よ。

 

むかし僕が高層ビルの建設現場でとび職をしていた頃ですけどね、

見事なまでに計算されつくしたあの分業システム、流れ作業というものに、

言葉にできないほど感動したのを憶えていますよ。

設計士さんたちが設計した図面に基づいて建物の基礎が打たれ、とび職人が上へ上へと鉄骨を組み、さらにその周りに足場を組んでいくと、その足場の上で鍛冶屋さんが鉄骨接合部分の溶接やボルトの本締めをしていきます。ガッチリ組み上がった鉄骨の上に、デッキ屋さんと呼ばれる人たちがデッキプレートの床を敷いて溶接していきます。そのプレートの上に鉄筋屋さんが鉄筋を組み、土間屋さんがコンクリートを流し込み、内装屋さんが部屋の間取りや内装を、天井屋さんが天井を、電気屋さんが電気を、設備屋さんが水道の配管設備などを施して組み上げていきます。

という具合に、餅は餅屋の言葉の通り、それぞれがそれぞれの専門職に特化して、見事なまでに流れるような分業体制によって一つの巨大な構造物ができ上がっていくのです。

日常生活の中で私たちは各々違う仕事をしているのに、それが国全体としての大きな経済の一翼を担って、社会生活をうまく機能させているのとまったく同じ世界の縮図を見ているような気がしました。

 

あ、では果たしてその気づきが悟りのようなものなのでしょうか。

いや~、少しは何かを悟っているような気がしなくもないですが...

多分そうではなくてですね、もう少し違う感覚を言いたいのです。

先を続けます。

建設現場に携わるそれぞれの専門職の人たちは、自分たちがビルの建設に関わっていることをあらかじめ知っていますね。ひとたび現場の外に出れば、ビルの外観を見ることができるわけですから、それは理屈を超えて一目瞭然というわけです。自分たちが毎日働いていることの意味が、あの完成に近づいていくビルを見ることで確認できるはずです。

ところがもし、それを知らずに働いているとしたらどうでしょう。

たとえば鉄筋屋さんの世界では、子どもの頃から毎日鉄筋だけを組んでいて、ビルの外に出ることもなければ、その鉄筋の上からコンクリートを流し込んでいる場面さえ見たこともないとしたら。自分たちの仕事がいったいどういう意味を持って何の役に立ち、どこでどのような決着を見るのか、おそらく何も想像できないまま生きているということになるはずです。そのときですよ。そういう世界で生きているときに、ある日突然自分はビルの中にいるのだと感じてしまうのです。大きな構造物の中に生きている自分を感じ、己が担うべき役割に気づき、すなわち己の存在意義を悟るのです。これが「悟りの境地」と言われる感覚世界ではないか...。

この広い宇宙に存在する我々生命体が、いったい何の意味を持って生きていて、いつかは何かの決着をみるのだろうかと想像してみても、そこには答えが見つかりません。我々はその先に悟りを拓くことに限界を与えられてしか、生きることを許されていないのかもしれませんね。

もしやどなたか、お金を出せばビールが買えるみたいに、

答えは簡単だよという方がいらっしゃるなら、是非教えて下さいませ

やれやれ...

 そして明日になるのです。

必ず明日に。