香港から帰ってきました
って。
とっくに帰ってきてましたけど。
もうホント更新遅くなってごめんなさい。
香港、とても楽しいライブでした。
ENグループの皆さん、スタッフの皆さん遅ればせながらありがとうございました。
では香港でのちょっとしたお話と写真です。
<香港ぷち旅行記>
今やお詫びすることから始まるのが慣例のようになってしまった。
香港に到着すると雨が降っていた。
「雨かぁ...」
スタッフのひとりが口にすると、
みんなが示し合わせたかのように僕を見るのだ。
はは。
ま、いっか~。香港を楽しもう!!
空港の到着ロビーには横断幕を持ったエングループの皆さんが手厚い歓迎をしてくれた。
ありがとうっ!!
笑顔で握手を交わし、乗用車とタクシーに分かれて香港の中心部へと向かうことになった。
「昨日まではとてもいい天気でしたけどねぇ...」
タクシー乗り場に向かって歩いている途中、迎えに来てくれたスタッフの一人が申し訳なさそうに言った。
するとまたしても周りの視線が、あらかじめ申し合わせていたかのように自動的に、いや、それよりももっと本能的な速さで反射的に僕に集中した。その速さは昨日今日の短い期間に成し遂げられるレベルではない。これまでの長い歴史の中で「雨男」の肩書きに恥じない実績とともに培われてきた、揺るぎない阿吽の呼吸のようなものだ。残念ながらそこだけは何にも増してパーフェクトと言うしかない。
そうやって僕に向けられた冷徹でも親切でもない視線の奥に、問責とも訴求ともとれる心の声を、僕は誰よりも深く読み取ることができるというわけだ。
「ごめんなさい。本当に申し訳ない」
歴史から多くを学んできた結果、こうしてひとりでにお詫びの言葉が出てくるようになった。
『自覚こそ生きる道、受け入れることこそ円満への道』
僕の座右の銘バイブル 51番目に殿堂入りしている言葉だ。
なーんて、そんなことはどうでもいい。
さて、
僕らを乗せたタクシーは、5秒に1回メーターが上がるほどの猛スピードで、香港島に近づいていた。
濃い霧のように低く垂れこめた雲が、まるで空から白いシーツをかけたように、香港の象徴でもある超高層ビル群を覆いかくしていて、「楽しみは半分だけね」と意地悪っぽく笑っているように見えた。
タクシーのメーターが上がる時の派手な電子音を聞きながら僕は、あのてっぺんが見えないビルたちは、ひょっとして僕らの将来の見通しを暗示してはいないだろうか...先行き不透明ってことか...などとアホなことを考えながら、しかし一方では自分のような人間とは正反対の、底抜けに明るく活気に満ちた五万の民衆が住む香港の街中を想像し、底知れないそのマンパワーから少しでも元気をもらえたらという気持ちにもなっていた。(おいおい、僕らの方こそ音楽の力で元気を分け与えるぐらいの気骨がないといけないじゃないのか?...それもそうだ。しっかりしよう)
テレサ・テンを思わせるような香港の歌謡曲がカーラジオから流れていたが、それをかき消すほどの電子音が、やはり気になった。
「料金はどんどん上がっているんだよ」と、
これほどまでに主張するメーターというものを僕は今まで見たことがないように思う。それはせっかちで単調なリズムを刻みながら、壊れかけた電子メトロノームのように、車内の会話の腰をも容赦なくボキボキと折ってしまうほどの音量だった。
その日の晩は、翌日からのライブの細かい打ち合わせを兼ねて、みんなで食事をして盛り上がった。
さて、翌朝。
僕らは香港で最も有名な寺院といわれる『黄大仙』(ウォンタイシン)というところに出かけて行った。
そのお寺は、「お金持ちになれる」とか「ギャンブルに強くなる」など、とりわけ金運に強い神様がいらっしゃいますと、案内役のスタッフの方が教えてくれた。とはいえ、誰しも祈るときにはあまりジャンル別に祈るものではないから、「健康で幸せ」を願うのが本命だとしたら、もちろん願えばそれらも叶えられる普通のお寺に変わりはないらしかった。ちなみにこの日はエンのオーナー夫妻に代わって、現地出身のとても明るくて元気な中年女性スタッフがガイド役として同行してくれていた。その女性はなぜか日本名でキミちゃんと呼ばれていた。
お寺の敷地内は地元の人と観光客で混雑していた。線香の匂いが鼻につく。あちこちから煙が立ち込めている。よく見ると、ほとんどの人がだいたい3本以上の線香を持ち(多い人は10本以上も持っている)、その線香を自分の顔から少し前にはなしたところで、立てた状態にして拝んでいる。なるほどお賽銭を投げて静粛に合掌する日本の祈りのスタイルとは少し違うようだ。境内の中央部分は、特別に強く祈りたい人たちのための瞑想スペースのような空間になっていた。その中では、ただひとえにひたすらに、激しく身体を揺らしながら線香を持って祈り続ける人たちがいた。その光景は、どこか現実世界を超越しているようで、荘厳であり、また悲壮にも見えた。
高層マンションやアパートに囲まれた都市空間にある寺院というだけで、ひと際目立つ建立物といえばそうなのだが、それよりも、このように煩悩を捨て去ろうとするかのように身を震わせながら祈る人たちを目の当たりにすると、現代文明の最先端のど真ん中にそれを認めてしまうことの奇妙な感覚に襲われるのだった。何だか違和感のようなものを感じずにはいられない。幸福を求めて生きる人間は、そのために文明を発達させてきたというのに、その象徴とも言うべき高層ビル群の大都会に、ここまで神頼みをしなくてはいけない人たちがたくさんいる理由は、いったい何なのだろうか。いや、それはむしろ科学技術の分野が唯一踏み込めない領域だからこそ、一方でここまで精神世界が崇められ、神にすがる精神文化が育まれてきたのかもしれない。いずれにしても古代から連綿と受け継がれてきている信仰心のその普遍性、その揺るぎないものに対して、僕はここ香港の街中で、今さらながら大きなショックを受けずにはいられなかった。
ということで、どうやら祈りたい人は線香を持ちながらということらしい。
どうりで敷地の外にも中にも、線香を売っている屋台がビッシリ軒を連ねているわけだ。線香の大きさというのも様々だ。普通のストローぐらいのものから、長めのさえ箸ぐらいのサイズまである。
さあ僕らも線香を買おうかとガイドのキミちゃんに訊ねると、
「もう買ってあるよ ほら」
と手に持っていた重そうな長い棒の包み紙をはがし始めた。
「えーっっ!!!これ???」
キミちゃんはさっきからいったい何を持っているのだろうと気になっていたのだが...
その代物はちょっと短めの竹刀ほどの大きさもある線香だった。
「世の中にこんなサイズの線香があるの??」
とても線香には見えない。
孫悟空で言うなら短めの如意棒、スターウォーズで言えばライトセーバーぐらいのサイズなのだ。
(そんな特大サイズが売っているのか?そもそもそれに火をつけることが許されるのか?)
その超特大サイズの線香を3本ずつ持たされた僕と幸人さんは、たちまち周囲の視線を集めることとなった。他に誰か同じサイズの線香を持っている人がいないものかと辺りを見回してみたが、そんな人は一人もいない。そのサイズは際立ってデカいのだ。僕ら二人は目立ちすぎるほど目立っていた。このキミちゃんは、誰よりも大きな線香で誰よりも大きな願いを叶えてほしいという思いからそれを買ってくれたらしいと、もう一人の日本人スタッフが教えてくれた。
紛れもなく純粋な厚意からくるものだというから驚くしかない。
できるだけ目立たないように線香を下に下げると、
「ダメダメ、上に上げていないと願いが届かないよ」
と大声で叱られた。
人ごみの中を溢れんばかりの羞恥心とともに歩いていると、
「オイそこの二人、その線香は違反だぞ、それに火をつけることは許されないよ」
と、警備員に激しい口調で(もちろん広東語だが)注意された。
(違反?どういうこと??)
「この線香はどうやら今は違反らしいです。多分昔(許されていた時代)の在庫が余っていてそれを買わされたんでしょう」
日本人スタッフが優しい口調で諭すように教えてくれた。
もはや僕と幸人さんは、不本意ながら違反行為をはたらくとんでもない観光客になり下がっていた。
自然に対する畏怖の念、神々への信仰心、小さな島に生まれ育った故に培われてきたものを誇りに思う気持ちは曲がりなりにも持っているつもりだった。たとえどんな場所にいようともそれは僕らなりの揺るぎなさで、奥ゆかしい礼儀とともにせめて最低限の祈りぐらいは捧げられる人間、少なくともそういう美徳だけは失わず内に秘めていられる人間でありたいと常日ごろから願ってやまない新良幸人と下地勇のはずだった。それが今、傍から見ると強欲のかたまり以外の何者でもない。神聖なはずの線香が、その常識外れのサイズというだけで、邪心や計算高さの象徴のように見られ、君たちはそこまでして金持ちになりたいのか?というような冷たい視線を浴びる結果となってしまった。しまいには、僕と幸人さんは5~6人の警備員に取り囲まれ、広東語の集中砲火とともに厳重注意を受けたのだった。
「悪気がないのが厄介」という世界は、誰もが容易に認めうる人間関係観でありながら、いざその当事者になってみると、胸中というのは何とも複雑なものだ。とは言いながらも、なぜかそれがまた笑わずにはいられないから厄介なのだ。苦味の利いた滑稽さなのだろうか。周囲の目に映る僕らの誤解された真意と、実際の僕らの少なくとも信仰に対する純粋な心境とのギャップが、不本意にも笑わずにはいられないという、二重にも三重にも厄介の連鎖を生み出していたのである。
受け入れることこそ円満への道。
生々しい魅力に満ち溢れた香港よ、
悟りを拓かせてくれてどうもありがとう!