旅の最後に...その3

下地イサム

旅の最後に...その3

シートベルトサインが消えたのは何か遠い昔のように、僕が飛行機の外に出るまでには、自分の中にあったイライラや、次の飛行機に乗れなかったらどうしようという、言いようのない切迫感に取って代わって、新たに諦めの気持ちが芽生えてくるのに充分な時間が過ぎていた。(もうムリだろうな)

外に出たら上江洲さんが待っていてくれるだろう。 ところが彼は既に次の望みを信じて新たなスタートを切っていた。運命を共にすると思われた相手は、友を待つよりも自分が先にゲートに辿り着いて、飛行機を待たせておくぜアミーゴというぐらいの熱い気持ちがあったに違いない。さすが場数を踏んだ現場の鬼と呼ぶに相応しい判断だ。そうでなければ自分の携帯電話が気になるはずだし、何より運命の友を後戻りさせてしまったことの方が申し訳なくて、そこに待っていてくれるはずなのだから。
気配さえ感じさせないぐらい、わき目も振らずに走り出したであろうことが想像できた。
(迷いがないな。よし、後を追うぜ兄貴!)
僕も諦めかけていた気持ちをリセットし、ネバーギブアップ・不屈のアララガマ精神を呼び起こして走り出した。

目の前の角を力いっぱい曲がったとき、すぐそこに上江洲さんの背中が見えた。(おそっ)

 

 拍子抜けする余裕などない。 行くしかない、走るしかない、信じるしかない。

 程なくして上江洲さんに追いついた僕は言った。

 「上江洲さん、携帯無かったよ」

 

 「あ、ゴメン...」

 

 「え?」

 

 

 「バッグにあったさ」

 

 (あったさ...って)

 

 

行くしかない、走るしかない、信じるしかない。

 動くベルトの上を歩く人や、立ち止まって楽しそうに会話している人たちの横を「エクスキューズミー、ソーリー、エクスキューズミー、ソーリー」と、またしても繰り返しながら走った。とにかくあらん限りの力で追い抜いていった。
手にしているネックスト・ボーディングチケットにはGATE「F5」の文字がある。ふと見上げると、GATE「F」の案内矢印はこの先を指し示しているが、今僕らが走りながら通り過ぎていく搭乗ゲートに「F」の文字はまったく見当たらない。 「C38、C39、C40...」と、走っても走っても、どこまで行ってもオロナミンのCMを彷彿とさせる「C」が続いていた。走って走って、もう息があがってどうしようもなくて立ち止まったとき、「D」が現れた。そしてまた「D1、D2、D3...」リポビタンもびっくりの「D」の応酬だ。
(これはいったい...)
このウルトラロングなゲートDを越えたら次は「E」、その次にやっと「F」が来るってことか。

 

 オウ、マイ、ブレス!

 

普段まったく運動をしていない僕らの至近距離に、想像を絶する呼吸困難が待ちうけていた。 足腰の疲れは後に来るだろう。しかし頭で考える以上に体が膨大な量の酸素を欲しがってどうしようもない。こんなに長い距離を全力で走るのは、高校の陸上部のとき以来ではないかと思われるほどだ。
滑走路と平行して建っているその巨大ターミナルは、滑走路と同じ距離を走らされているような気にさせた。

 

これが日常に転がっている乗り継ぎというものなのか。

 

道場破りを迎え打つ名門道場のように、その巨大ターミナルは、僕らを試すようにゲートくんたちを次から次へと行く手に差し寄こすのだった。
マドリードの空気はどうだった?と後に訊かれたとしても、息を吸い過ぎてまったく憶えていないという以外は答えようがない。
自分の身体がいかに老いに向かっているか、こんなことでもない限り身をもって思い知らされることなんてないなぁと、余計なことが頭に浮かんできてふと後ろを振り向くと、上江洲さんが立ち止まって大きく肩で息をしていた。


老いの先にさらに老いがあるのだと思った。

 そして、ヘトヘトのピークを何度か通り越して、僕らはやっとのことで「F5」に辿り着いた。
どれだけの人をわき目も振らずに追い抜いてきたかわからない。駅伝なら区間賞ものだろう。
思ったとおり、F5ゲートには人が誰もいない。 カウンターに二人の女性スタッフが立っていた。息も切れ切れにチケットを差し出すと、

(何なのこれ、あなたたちは何なの?)

 というような表情をしながら、


「もうとっくに行っちゃったわよ。どうして今頃?」

 (ああ...やっぱり・・・)

 決定的な事実を知らされたとき、はじめて言いようのない悔しさがこみ上げてきた。

 「あんたんとこの...   ハァ、ハァ   飛行機が...  ハァ、ハァ    遅れたからだよ...  ふぅ~、 グラナダからの...  ハァ、ハァ  ヤツがね」

 怒りをぶちまけ捲くし立てるには、あまりに疲れ、あまりに英語力がなかった。

 「ああ、そうなの、じゃあカスタマーサービスカウンターに行ってチケットを見せて下さい。来た道を戻ってゲート「D25」の前にカウンターがあるから」

(はあああぁ~ ?...)

 どこかに腰掛けないと、変なダンスをしているみたいに足がガクガクで、吐き気と悔しさとたとえようのない落胆とで、もうこれ以上立っていられないというのに、また来た道をゲートD25まで戻れと言うのか。 やっとでゴールしたと思った駅伝選手に、タスキを落としたから戻って取ってきなさいと言われているようなものだ。たとえ戻って取ってきたところで勝利の望みが1%もないのなら、いったいどこからやる気を拾ってこようか。

(しかし戻らねばなるまい。なんとしても日本に帰らなければ)

ふと上江洲さんを見ると、あまりに落胆しすぎて、その表情は笑っているようにも見えた。英語力は3%にも満たない二人が、商店街で雨に濡れる迷子の子猫のように、スペインで思いもよらない漂流の歴史を刻もうとしていた。
大きく肩を揺らしながら僕ら二人は、お互いにかけ合う言葉も見つからないまま、再び歩き出した。
通り過ぎるゲートには、楽しそうに搭乗を待っている人たちの姿が見える。別のゲートでは機内に入っていく人たちも見えた。つい何時間前には僕らもあの確実なシステムの中にいたのだ。
目に映るすべてのシーンが、白黒のスクリーンを見ているようだ。

 

 僕らが乗り遅れた航空会社のカスタマーサービスカウンターというところに辿り着く頃には、あがっていた息も落ち着き、気持ちが再び新たな方向に向き直りかけていた。
そこには10人ぐらいの人が列を作っていた。すぐに自分たちの番が回って来るだろうと思ったが、一人ひとりが個人面接でも受けるように、かなり長い時間を要している。(きっとこの人たちも乗り遅れたか何かで大きな問題を抱えているのだろう)
並びはじめて40分ぐらい経ったとき、やっと僕らの番が回って来た。

英語力1%ぐらいの上江洲さんに代わって僕がチケットを差し出し、歩きながら考えてきた英語のセンテンスを一言一句洩らさず相手に伝えた。 その女性スタッフはチケットを見たとたん、
「ハァ~」
と大きなため息をつき、「チッ」と舌打ちまでした。
このとき、冷めかけたヤカンのお湯が再び沸騰してそのフタがスッポーンと飛んだような気分になった。(オイ、その舌打ちは僕らのもんなんだよ) しかし怒りで英単語が思い浮かばない。何も言えない。 彼女は、非常に面倒臭そうにコンピューターのキーボードをパチパチと打ち始め、無言の時間が10分ほど続いた。そしておもむろに立ち上がると、受け取ったチケットを僕に差し返し、
「ホールド・オン」
と言って、奥のほうに消えていった。

 (よっぽどややこしいことなんだろうか。それともやりたくない仕事なのか)

それにしても、次の飛行機に乗れるのかどうかぐらい説明があってもいいようなものだ。

 

それから果てしなく時間が流れた。後ろの列の人たちは、それなりに時間はかかるものの、他の三人の女性スタッフのそれなりの客さばきによって、僕らより先に要件を済ませてはどんどん去って行く。 それなのに待てど暮らせど、彼女は帰ってこない。 さすがに忍耐の限界を感じ、隣で他の客とやり取りをしている女性スタッフに言った。

 「ヘイ、ここにいた彼女はどうなってるんだ?」

 するとその女性スタッフは

 「あなたたちはなぜそこにずっと立っているの?」

「彼女が僕らを待たせたまま奥のほうに消えたんだよ。ずっと待っているのに戻ってこないんだ」

 たどたどしい僕の英語を聞いて彼女は肩をすぼめながら、両手でトレイを持つようなジェスチャーで、

 「彼女は家に帰ったわよ。自分の勤務時間が終わったからね。もうここには戻らないわ」

 

 「...」

 

 「まさかひゃ~」

 

 上江洲さんが、本当に落ち込んだ時にしか出てこないような、音を含まない声で呟いた。
 何と言うことか。 彼女は僕に『ホールド・オン』と、プリーズもつけないで言っておきながら、説明もなしに家に帰ったと言うのかぁぁあ??はああぁ??ここは本当にカスタマーサービスなのか??どんなサービスがあってこの名前かぁ? もう、これだけのことを捲くし立てたいのに、4つぐらいしか単語が思い浮かばなくて、ストレスで息が詰まりそうになりながら、

 「ソー、ワット・シュドゥ・ウィー・ドゥー?」

出てきたのは馬鹿丁寧なこの言葉だった。

「じゃあ私たちはどうしたらいいのでしょう?」

 情けなくて死にそうだ。

 「もう一度列に並ぶしかないわね」

 「まさかひゃー」

今度は、大声で上江洲さんが叫んだ。
 この切羽詰った状況が、上江洲さんにも五感で英語を理解できるようにはたらいているようだ。 (これはこの担当者個別の性格なのか、それともそういう仕事の内容か)
おおマドリード、ひいてはスペイン国よ。あなたは僕らに来て欲しくなかったのだね?受け入れたくないのならそう言ってよ。

 そのとき向こう隣の女性スタッフが、

 「お客様どうぞこちらへ」と、

僕らを見かねたのか、こっちに視線をやりながら声をかけてきた。
やり場のない気持ちをうまく収納することができずに、しかしもう一度忍耐の二文字を自分に取り戻し、僕は努めて平静を装って、物静かにチケットを差し出した。

 「アイムソーリー」

その女性スタッフは、僕の目を見ながら心のこもった声で言った。

 スペインの黒々とした瞳だ。

 (あー、この人ならわかってくれそうだ。よかった。)

 

 「ここでは対応できないわ。出発ロビーのカスタマーカウンターに行ってちょうだい。」

 

つづく

 ごめんなさい。 何とかがんばって書いてみたんですが、終わりきれませんでした。 もうここ台湾のホテルのチェックアウトが迫ってきたので、続きは沖縄に帰ってから更新します。 許してください。