カテゴライズ

下地イサム

カテゴライズ

ドレミファソラシの音の組み合わせは非常に奥が深くて面白い。
たった一つの音が(ギターで言うところの)隣のフレットに移動するだけで、構成している和音の印象がガラリと変わったりする。明るい感じの和音(メジャーコード)から暗い感じの和音(マイナーコード)に変化したりするのだ。
「ド」の音は一人きりの時は完全に「ド」でしかないが、「ミ」と「ソ」と一緒になることで、明るい和音の「C」になり、「ミ」と「ラ」と一緒だと、「Am」という暗い和音になる。同じ「ド」でも、どの音符と一緒になるかによって立場のようなものが変化するということだ。しかもその立場は非常に重要な位置に置かれることもあれば、いてもいなくてそんなに支障がないという場合もある。その音符がどういう個性を発揮するかは、他の音符との組み合わせによって決まる。音符には♯などの半音も混ざるから、組み合わせのバリエーションはとても幅広くなる。

沖縄本島の人たちに囲まれている僕は「宮古の人」という目で見られるが、それを県外の人が見ると、僕を含めて「沖縄の人」という括りになり、それを中国の人が見ると、県外の人も一緒になって「日本人」になり、さらに欧米人が見ると、その中国の人を含めて「アジア人」という括りになる。
日本の中の沖縄人という立場と、アジアの中の日本人という立場、さらに世界の中のアジア人という立場は、やはり大きく異なるような気がする。括りによっては被害者のような立場から加害者のような立場にもなる。会話の話題や発言も、自ずと括りを意識したものになってくるはずだ。僕という個人は生まれてこのかた「僕」でしかないが、あらゆるカテゴリー集団の中で、己の意図とは無関係のところで立場が変化し、自分の根本の色を持っているはずなのに、まるでカメレオンのように外から見ると周りのグループの色と同色化して見られてしまう。その色の種類たるや、カテゴライズされる種類分、まさに1万通りあれば1万色ということになると言っていいだろう。

「宮古の言葉は解らない」と沖縄の人がウチナー口で喋っていると「沖縄の言葉って難しいね」と県外の人が言い、「ニホンゴワカラナーイ」と外国人に言われ、やがてその外国人さえも「チキュウジン・ヘン・イミ・ワ・カ・ラ・ナ・イ」と地球外生命体から言われることになるだろう。

話は戻るが、一つ確かなことがある。
それは音符は決してグループ内の他の音符を裏切らないということ。
そのグループの中で自分の立場をわきまえた音を必ず奏でる。それが美しく聞こえるか、不協和音に聞こえるかは、組み合わせる側にかかっている。