ボタンひとつで買い物

下地イサム

ボタンひとつで買い物

僕がおばぁの商店で買い物をしていた少年の頃は、当然のことですが、おばぁがお店を開けている時間帯しか買い物ができませんでした。夜9時頃コーラーが飲みたーい!と思っても、おばぁのお店は8時には閉まっていたので、どうあがいても明日を待つしかありませんでした。

そして今日、たった今僕は、ギター用の機材をAmazonで購入。自ら買い物に出かけて行く事もなく、深夜の時間帯に、ボタン一つで済ませました。ワンプッシュで欲しい物が手元に届くとは、おばぁごめんなさい。と、あの頃のおばぁが生きていたらそう言いたいところです。あの頃の自分と同じ自分が、あの頃には想像もつかなかったやり方で買い物をしています。

本田宗一郎さんがいなくなっても、HONDAはなくなりませんが、おばぁがいなくなると、おばぁのお店はほとんどがなくなりました。おばぁはバイトを雇わなかったし、後継者も準備していませんでした。
なのでおばぁが起きている時間帯に消費行動をとるというのが当たり前でもありました。そしてこれまた当然のことながら、おばぁに毎日そこにいてもらわなければ困りました。おばぁの生活にトラブルがあるかどうか、おばぁが元気で長生きしてくれるかどうかといったことが、少なからず僕らの生活には影響を及ぼしていました。自分の人生、自分のライフサイクルというものが、いついかなる時も自分の、自分だけの自由意志で決定し行動するという風にはいかず、少なくとも消費生活の面においては、身内でもないおばぁに影響されていたのです。同時におばぁの命は、おばぁだけのものではありませんでした。長生きしてもらわなければ困るという僕ら消費者の潜在的な意識が、おばぁの内なる責任感にこれまた少なからず火を付けていたはずです。つまり「私が元気で生きていなければみんなの生活が回らなくなる」という、商店のおばぁとしての自覚が、ごく一般のおばぁよりは多少なりともあったに違いありません、という点において、お店のおばぁもまた僕ら消費者の影響を受けていたのです。 多分。
いったい僕は何を言いたいのでしょう?

パソコンのボタンをポンっと押してしまったというだけで...やれやれ。

買ったのに商品がまだ手元にないという現象は、おばぁのお店ではあり得なかったのですが、お金を払っていないのに商品が手元にあるという現象は、日常的に見られた光景でした。
高校生の時、おばぁのツケ帳面に何度も名前を書き込まれた僕です(笑)。あ、もちろんちゃんと後で払いましたよ。
偉大で寛大なお店のおばぁ、ありがとう!今はもういないけど。