もっと出来ることが…

下地イサム

もっと出来ることが…

自分にはもっと他に出来ることがあるかもしれない、と思う瞬間が訪れるのは、二つの相反する心境の時ではないかと思う。充たされない日常の中でやりたくないことをずっとやってしまっている時、もっと他に出来ることがあるんじゃないだろうか、と思ってしまう。
逆に今一番やりたいことが叶っていて、そんな自分に少しずつ自信が持てるようになっている時も、もっと他にも出来ることがあるんじゃないかと、前向きな気持ちがそう思わせてくれる。まるで真逆な心境なのに、あるところに向かおうとしているという意味においては双方とも原動力となるエンジンを積んでいる。どっちのエンジンで始動したとしても、止まりたくないという意志、何かに向かって進んでいたいという気持ちは共通しているのかもしれない。落ち込みすぎてもう何もやりたくないと思ってしまったら、そこで止まってしまうし、絶頂の時に調子に乗っていたら、自分が停滞していることにさえ気づかなかったりする。ただ、心境という燃料で動くそのエンジンは、もしかしたら異なる性質のものなのかもしれない。かたや静かに穏やかに走る代物、もう一方はうるさくてスピードもそれなりに出てしまうもの。というような。
肝心なことは、どんな時も自分が積んでいるエンジンを見失わないことなのかな。

今日(録りためていた)BS世界ドキュメンタリーのヒトラーシリーズを観て、なんとなくそう思った。
人間の行動というのは、純粋に個人の主体性から生まれるものと、集団の中の社会性から生まれるものとがあるようだ。個人としては決してやってはいけないと解っているのに、集団の中ではやらなければならない、または普通にやってしまうということが起きてしまう。しかもその集団へは自ら望んで入ったのだ。逆らうと命さえ落としてしまうという危険を、束縛を、恐怖を予感していながら、人々は熱狂的に独裁者を選び、迎え入れたのだ。世界恐慌という時代背景も手伝って、人々の中に安定や安心を求める、集団への帰属意識が強くなっていたのは間違いないだろう。それにしても人間というのは自ら自由を捨ててまで集団に属していたいという欲求があるという事実に驚かされた。ナチスドイツ時代の歴史がそれを証明している。
その根本は、調子のいい時もどん底の時も、他に出来ることはないのだろうかと、何かしら行動の礎となるものを希求する欲を、我々人類が生まれながらにして持っている、というところにあるのではないか。動き出すことは決して悪いことではないとして、何が原動力で動き出したのか、どんなエンジンで走っているのか、いついかなる時もそこを見失わないでいることが大事なのではないか。そしてどんなエンジンの時も冷静にいつも通り運転をすること、ヤケになって暴走しないこと、それがとても重要なことのように思われた。

って、今日もたっぷり時間があったんです。はい、すみません。そんなに忙しい一日ではありませんでした。あ、いや、暇でした。他に出来ることはないか探してみます(笑)。