呼吸のような世界

下地イサム

呼吸のような世界

今日は久しぶりに湯船につかりました。まだまだ暑い沖縄は、毎日がシャワーの日々ですけどね。
ところで湯船に首までつかると、水圧で肺が多少圧迫されるため、呼吸が少しだけ重くなります。そのせいでというか、そういうことでもないと呼吸というものをほとんど意識しないものです。ということで僕はしばらく深呼吸をしながら「呼吸」について考えてみました。
呼吸というのは、考えてみると不思議なものです。すぐ目の前で行われているのに、意識しない(させられない)、それでいて呼吸をしなかったら死んでしまうという、生きるために絶対に必要な動作なのです。呼吸によって人間は細胞内に酸素を供給することができています。生きるためにまずこれがないと!というぐらい一番重要な働きでありながら、がんばって働いていることを全く感じさせない、さりげない(無意識の)動きなのです。
では逆に人が呼吸を意識するときというのはどういうときでしょう?水に潜るときや深呼吸をするときのように、平常時の呼吸のリズムを変更しようとする時です。そのときに無意識の世界から意識的な世界にスイッチが切り替わります。しかしそれは長続きしません。一生深呼吸で生き続けることはできないし、当然のことながら息を止めても生きることができない。長続きさせようと思ったら、平常時のリズム(無意識の世界)に戻らなくてはいけないのです。ま、放っておけば自ずとそうなるのですけど。呼吸のメカニズムというのは何か万物に通づる普遍的な法則を隠し持っているような気がします。もしかしたら大事なものであればあるほど、あまり意識しない方がより長く継続できるということなのかもしれません。何かを大事にあたため続けたいと思う人は、そのことに対して関心を失くしてはいけないけれど、あまりに熱が入り過ぎて猛進(妄信)するというのもよくないのかも。あるいは好きだからこそ無意識の領域にそれを持ち込むことができて、淡々と行い続けるという境地に到達できるのかもしれない。などと、とりとめもないことを考えているうちに完全にのぼせてしまいました(笑)。

たとえば僕の大好きな歌(音楽)があります。いろいろある中で、幼いころの思い出とセットになっている歌というのがあります。この歌を聴くとあの頃を思い出すというような。歌そのものも好きですが、あの頃の思い出がその歌によって甦ってくる感覚が好きなのです。僕はある時期あまりにそれに浸り過ぎて毎日聴いていました。すると、それから時が経ったある時点でその歌をあらてめて聴いてみたとき、思い出が書き換えられていることに気づきました。最初に甦っていた思い出ではなく、その思い出を甦らせるために毎日聴いていた日々に上書きされていたのです。それは僕にとって少し寂しい出来事でした。大事にあたためていたかったのに、その甦る思い出によって得られたあの懐かしい感覚が、ノスタルジックな雰囲気が、自分だけのかけがえのない世界が、(全部というわけではないけれど)失われていました。悲しいことに元の思い出そのものも色褪せてしまったような気持ちになりました。何かを大事にあたため続けたいと思うなら、呼吸のようなバランス、距離感が必要だったのかもしれません。いつでも引き出しを開ければ自由に意識的な世界を楽しませてもらえるけれど、熱が入り過ぎる前にさりげなく無意識の世界に戻っているというその感じ。僕の父が毎日ヤギにあげる草を刈りにいくように、同じ量で同じリズム、妄信でも無関心でもないバランス。それは素敵な呼吸のような世界。さあ呼吸しましょう。
って、してるか(笑)。
なるほど生きている人みんなが持っている世界なんだ!